猪十戒の「み言葉に導かれて」

欠けの多い猪武者こと猪十戒(安田信夫)が、日頃の生活の中で心を動かされた事や「み言葉から思うこと」などを書きとめておきます。出るだけ毎週の高槻教会の礼拝や旅の途中で出席した他教会の集会等のこと、その他私の思いなどを紹介してゆけたらと思います。

10月20日は「寄り添い寄り添われる」高槻教会の家庭集会

今日10月20日は、高槻教会の家庭集会の日。 Sさん宅で『信徒の友 10月号』を参考に「寄り添い寄り添われる」についての家庭集会。
まず最初に聖書のルカ10:25-37を輪読し、その後に短い解き明かしを先生から伺い、そしてその後にみんなで感想を述べ合い色々話す。
寄り添うことへの難しさ、その必要等々賀、色々な経験を踏まえた話で互いに語られる。単純な事例だけでなく、相手の状況や思いを理解し必要な配慮をしながら、行動しなければならない難しさなど色々出た。その話の中で、高槻市が行っていたが今はコロナの影響下で活動が困難になっている「地域でのふれあい喫茶」などの活動が話され、先年亡くなられたNさんが、その活動で支えれれていた。その活動が困難になっている事、そういう場所で互いの情報交換をしながら、自然に交流やふれあいができていたのにと状況を悔やむ声もあった。
教会でも「歌の集い」意外に、その様な活動ができないだろうかなど、色々話に花が咲き、良い交流ができた。
会の終わり直前には、会場提供者のSさんが昨日誕生日であったとのことで、有志の方が作ってきださったホールケーキをみんなで切り分け頂いてコーヒータイムとお祝いのひととき。良い集会であった感謝❣️ 来月Sさん宅で開催の予定である。

10月16日の高槻教会朝の礼拝と主日礼拝

朝の礼拝は、今週も「1つの体、多くの部分」の箇所の続き

今週は先週の第1コリント12:12-13 に続く12:22-26の部分。「体の中で他よりも弱く見れる部分が、かえって必要なのです。・・・」の箇所。今日は藤原牧師が、絵本の「ちょっぴりもれたろう」の話をプロジェクターで披露しながらのはなし。体の色々な部分が互いに助け合って共に喜ぶことを時話された。現実にはなかなか難しいことですが、教会が一つの体として支えあうための基本として楽しくしっかり聞けた。感謝❗️
分級では、子どもの会がこの間行ってきている「私たちの教会を知ろう!作ろう!」アンケートの集計作業。発表が楽しみ❣️

主日礼拝は、マルコ14:43-52から『内なるユダ』で解き明かしを聞く

主日礼拝は、交読詩篇146:1-10、出エジブト記32:7-14、ヘブライ書6:4-12、マルコ14:42-521からみ言葉を聞き、マルコを中心に解き明かしを聞く。高槻教会で好きなのは毎週4か所(招きの詞を入れると5か所)からみ言葉を聞けること。
お話の中では、弟子の一人のユダがなぜイエス様を裏切ることになったのか? そのユダを含めて私たちのためにイエス様が十字架に着いてくださったこと・・・、などを話され、私たちキリスト者はユダを「裏切り者」と簡単に批判すべきではなく、むしろ自分自身の「内なるユダ・罪」に気づくべきであると話された。私たちもイエス様の十字架を見つめ従って行きたいと思う。今日の礼拝では最後にヘブライ書6:4-12のみ言葉が最後に読まれて終了した。み言葉を味わいたいです。

礼拝後は、子どもの会のスタッフ会

毎月第3週は、子どもの会のスタッフ会。昼食後6名のメンバーで開催した。
子どもの会の合同分級アンケートの集計と作業の中間報告があり、その発表方法などの着いて話し合った。発表されるのを聞くのが楽しみだ。
その後、12月までの朝の礼拝の福音のメッセージや文久担当などを確認する。12月にも福音メッセージの担当がある。聖書をよく読んで準備しよう。
そして11月20日の収穫感謝合同礼拝や、12月の子どもの会クリスマス集会(チャーチランド)の計画について話し合い、また子どもハンドベルの計画について確認した。
そして最後に小見のぞみさんの「聖書のお話を子どもたちへ」No.9を読んでの学びを行なう。参考になった。

礼拝案内の看板です

祈祷会の聖書箇所は創世記に❣️

前回の祈祷会でホセア書の学びは終了したので、今週からは創世記の学びを開始

前回の祈祷会で続けていたホセア書の学びは終了したので、今週からは創世記の学び。
週報の案内では創世記1:1−4aと有ったから、創世記の学びは多いから、最初は「光あれ」の部分だけを詳しく学ぶのかと覚悟して臨んだが、実際その箇所は創世記1:1-2:4a、これならほぼ1章を通読できるから、良かった。色々な事情で今週の参加者はいつもより少なかったが、楽しく輪読し学べた。
その学びの中では、モーセ5書の最初の部分で紀元前6世紀ごろにまとめられたものと学ぶ、また聖書学の研究では、G,E,P,D資料という4つに分けて知られている資料からまとめられたものと学ぶ。
その中で、今日学んだことの中では、この天地創造の話をされる前に既にこの世には混沌(カオス)があって、それに神様が光を与え、秩序を想像されたこと、また神様はご自分のことを我々と複数形でご自分を呼ばれ、ご自分にかたどって人を造られ、それを男と女に造られたと学んだ。男女平等の考えのベースである。神様はどんなものにでも変わって現れるから我々でもおかしくないな❗️
祈祷会では、南町田教会のことを祈り、また、2名のハガキを書いて届けることの方や、今日の祈祷会に支障があって参加できない方のことや、これからの教会の活動のことを覚えて祈った。
私自身は、先日教団総会の出席せよと神様から命じられたことから与えられた宿題に取り組むことを心がけると祈った。

これはこれから使う創世記の解説資料

次回から忘れないようの持ってこよう。だらしない私はいつも忘れてしまうのだよね(反省)
家に帰ってからは、コロナで顔を合わせて開催できていない北大阪朝祷会の課題のついて、軽込先生他に電話した。
会の再開はすぐできなくても、やるべきことはやっておこう。

10月9日の高槻教会の朝の礼拝と主日礼拝

朝の礼拝では、私が福音のメッセージの担当

上の写真は朝の礼拝の時の藤原牧師のお祈り、今日は私が福音おメッセージ担当であったから当然私の写真はなし。お話は第1コリント12:12-13節のみ言葉から「体は1つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は1つであるように、キリストの場合も場合も同様である。」から、主の教会は一つになってほしいし、そういう思いで毎週の教会に集ってほしいというお話をした。お話の最初に第1コリント1:10-17の部分も読み、先週教団総会に行ったときの思いとして、2000年前と同じように今も私たちの教会は主の教会は1つとなれていないとの感想を語り、その後に私が子供の頃に教会に通っていた広島県の福山の町では、主の教会は1つの想いのシンボルとして1月1日の元旦には、市内のプロテスタント教会(アライアンス/ルーテル/聖公会/長老派/メソジスト/会衆派の6教会が毎年会場を移しながら、それぞれの教会の方式に従って礼拝をして互いに交流し、主の教会は1つの思いを共有していた。そのおかげで、私はキャンブ生活を楽しむときでも、芝居を遠隔地まで見にゆくときでも、その近くの教会の礼拝に集うことが出来た。普段出席する教会は決まっているのであるが、多分日本中で100教会は行っているかな❗️
主の教会は1つと確信が持てていればその辺りが、自由にできるから真似してと言っておいた。そして色々な教会に行った時の鉄則は、お客さまだからその教会のやり方を素直に受け入れること、そしてどうしてもその教会の雰囲気が受け入れられない時には二度とそこに行かなかったら良い❗️私の100以上の教会の中で1つそんな教会だあり、その教会は2-3年でその教会は無くなっていたと事実を話しておいた。
話していると、子どもたち以上の大人の方の頷きが大方ように思う。役目は果たせたかな❗️

これは10月9日の礼拝案内の看板、大和高田伝道所の富田穎子牧師による『どんな種より小さいが』

10月9日の主日礼拝は、大和高田伝道所の富田穎子牧師のお話

10月9日の主日礼拝は、大和高田伝道所の富田穎子牧師に来て頂いて、『どんな種より小さいが』と題し、マタイ13:31-32をテキストに、大和高田伝道所の歴史や現在抱えられている問題の現状の背景説明をしながら、カラシ種のように働くことを目指しての開拓伝道の現状を話して頂いた。
富田穎子先生は1985−86年に高槻教会で伝道師をされた後、東京神学大学大学院で学び直し牧師になられた方、高知教会や鎌倉泉水教会で働かれた後、1998年から奈良県の大和高田の地で開拓伝道を20数年なされている。私たちのその当時から高槻教会も大和高田伝道所を支援する献金運動を長年続け、毎月献金を辞退されるようになった後も、その活動は現在では「労苦する教会・伝道所等を支える献金」運動として続いている。
良いお話を聞かせて頂いた。

今回富田先生に来て頂いたのは

上でも書いたが、私たちの高槻教会では昔から大和高田伝道所と繋がりを持ち、時には観光バスに載って観光をかねて会堂訪問をし、帰りには温泉を楽しんだりしてきたが、今回来て頂いたのは、大和高田伝道所が、駐車場などのために隣接地を購入される課題に関して、教団内の全教会に対する献金呼びかけ活動の実務されるのは、活動できる教会員数からして困難であろうから、その部分を高槻教会員が実務を代行応援できないだろうかとの検討から始まり、一度先生に来ていただきお話と事情をしてから応援しようとの役員会判断でお願いして実現したものである。
礼拝後の例会で、富田先生から大和高田伝道所の現状もご一緒に聞いたので、これから具体的な実務の応援活動が、役員会から提案があるだろうから、できる範囲で応援して行きたいと思う。

例会後は、富田先生と役員会で会食し交わりを深める

コロナがなかったら例会では愛餐会を開いてく交流できるのだが、コロナ禍でそれが難しいので、先生と役員会のみの会食交流の時、伝道所の抱える問題をさらに深くお聞きし、同時に昔のバス旅行の思い出などの話の花が咲き、コロナが治ったらまたバス旅行して新しい会堂を訪ねたいな❗️などと話が弾んだ。

川上潔先生の最後の説教をYouTubeで聞く、感謝❗️

第42回教団総会に出席した際に、八日市教会の川上信先生にお会いした。
そして故川上潔先生の最後の説教が八日市教会のYouTubeにあるとお聞きした。
そして、その最後の説教と告別式の様子をYouTubeで拝見した。
最後の説教は、先生が若い時出逢われた悲しい出来事に触れての話であったが、正に主に召されることを覚悟しての人生の大事な事の振り返りの説教の様であった。この説教の存在を知ることが出来てお聞きできたことを感謝します。

川上潔先生は、私が就職して京都に出てきた時に通っていた第2の母教会の錦林教会の牧師先生であった。現在の川上信先生はまだ赤ちゃんであって、お兄さんの川上盾先生がまだ教会学校の生徒であった時代に毎週長岡京市から京都大学近くの錦林教会に通っていたのだ。
潔先生が八日市教会に移られ、私が高槻教会に籍を移してから数10年、長くお会いしたことはなかったのだが、数年前に趣味のブックオフ検索で八日市を訪ねた時、一度だけ八日市教会の礼拝に出席して、先生にお会いしたことがある、それ以来お会いできていなかった。
2021年2月15日に主の元に召されたことは知らなかって、何かのようで信先生にお父様はお元気ですかとお聞きして、実は・・・とお聞きした。その時には勿論、潔先生の最後の説教を聞けるYouTubeの記録歩があるとは思っていなかったので、驚き、お聞きした。

今回の、教団総会出席は本来は私ではなく、他の方が出席するはずだったのに、神様の気まぐれで、私が教団総会に出席できて、先に投稿した江戸牧師との出会いといい、川上潔先生の最後の説教をお聞きすることができたことが不思議に思いました。

神様のなさることは、いつも不思議で素晴らしい。いつも私は愛され、まもられているのだなと思いました。

題42回教団総会にて、江戸 清牧師と会う。感謝

 題42回教団総会に参加して、議員名簿を見ていて、奥羽教区選出の教師議員の中に奥中山教会の江戸 清牧師のお名前があるのを発見した。
面識のある牧師ではないし、勿論江戸牧師は私の事など全くご存じないはずである。
でも私は江戸牧師のお名前は知っていた。というのは、私が18歳で福山の町から京都の立石電機という会社に就職して、その中央研究所勤務となり、交通信号機の開発を研究する交通部門の研究室に配属された時の最初の主任が、江戸牧師の叔父さんの江戸鶴男さん。お名前の漢字は違っているかもしれない。でも、会社ではそのご兄弟のことは話されないから、会社の近くの神足教会という教会で伝道師?もしくは副牧師と働かれていることは知らなかった。
 神足教会は職場(住んでいた寮)から一番近い教会であるから、とても大きな幼稚園を経営されていた教会で、4月の第1週に礼拝に参加したが、主任牧師の取り仕切る礼拝がとても異様で、今の言葉によるとカルトの様に感じて、私の人生の中でただ一つのこの教会には行きたくない教会となってしまた。第2週からは、高校時代に西中国教区の高校生キャンプに指導者として出席されていた川上潔牧師のあられる京都の錦林教会に集積する様になった。その教会では同志社の神学生もの多く私は楽しく定着した。
ここまでの話では、江戸牧師との関連はないだが、地元にある神足教会は2,3年の内に幼稚園だけが残り、教会閉鎖になったのだが、その幼稚園の運営に問題があると地域の運動が起こり、同時に江戸という牧師が迫害されているようだとの噂が流れ、私は当時活動していた乙訓の反戦青年委員会のメンバーとして、ハンドスピーカーを持って押しかけたりした。江戸鶴男さんは街で政治活動をされる方ではなかったが、江戸牧師は御兄弟であるとだけ聞いていた。
その江戸獄氏は奥羽の方で牧師を続けられていたと聞いていたから、もしやと思ってお声かけした。

やはり江戸鶴男さんの甥御さんであった。もう年を取られに認知もで始められている様であるが、古い知人につながる方に出会えて幸せであった。


 

 

 

 

10月2日日本基督教団高槻教会 世界聖餐日礼拝他

1. 朝の礼拝はマルコ2:1−12から、中風の人の癒しとその友の信仰の話
 樫田さんがお得意の人形たちを使っての物語を構成しながらの「福音のメッセイージ」友のために働くものとその思い、信仰とそれに応えられるイエス様、素敵なメッセージであった。

2.主日礼拝はマルコ14:22-26から「命と愛をいただく聖餐」と題して、藤原寛人牧師からメッセージをいただきました。先生も私の教会でも論議と対立を経験されている。聖餐の理解に関しては色々な理解考え方があるのに、ある一つの考えだけで聖餐はこうあるがべきと主張されていることに対して、イエス様が聖餐を制定された「過越の食事」とその前後の主の弟子たちの様子などの話されながら、共に聖餐に預かる恵みと喜びを話された。私たちの聖餐の恵みにともに味わいながら、それに預かるにふさわしい生き方を送ろうと思います。
礼拝ではコロナ禍で、互いに握手しながらの「主の平和」の挨拶交換はできなかったが、牧師と会衆で「主の平和」の挨拶交換して聖餐をいただいた。

3. 礼拝後は十月の誕生者の祝福をした後、誕生を迎えた方からの1ことをいただき、今月は牧師も10月誕生者ゆえ、当番役員が祝福祈祷。

4. その後には、昼食を取ってから役員会、15時半ごろまでの長い会議であってたがご苦労様。

聖餐式の様子

朝の礼拝の様子

 

受難節第1主日、第1の消灯礼拝

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受難節第1主日は消灯礼拝を守りました。

今週から、礼拝前のチャイム演奏は、受難節用の曲に変わりました。また講壇のお花も緑色の葉が中心の観葉植物に変わりました。消灯礼拝の期間は、礼拝は牧師先生の消灯の詞の読み上げで礼拝が始まります。そしてキリエレイソン(讃美歌21-32)の賛美の中で最初のろうそくが消され、その後に司式者の先導による礼拝が始まります。

消灯の詞1
「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と主は言われます。わたしたちは、「自分を捨てること」、そして「自分の十字架を負うこ」の重さに恐れおののきます。しかし、十字架の道を歩む主イエスの背中が、弱いわたしたちに、本当の勇気と力を与えるのです。人生の闇の中にも、主が先立ち給うことを覚えて、第1のろうそくの火を消します。

礼拝次第
前奏
消灯 32 キリエ(消灯の詞1)
招きの詞 ヨエル書2章12-13a
讃美歌 310 血しおしたたる
主の祈り
交読詩編 詩91編1-13節
讃美歌 284 荒れ野の中で茨の冠を
聖書 出エジプト記17章3-7節、ヘブライ人への手紙4章12-16節
牧会祈祷 田中雅弘牧師
讃美歌 295 見よ、十字架を
福音 マタイによる福音書4章1-11節(主)
説教 「神の子なら」 田中雅弘牧師
祈祷
讃美歌 467 われらを導く
献金
報告
頌栄 88 心に愛を(アーメンまで)
祝祷
後奏

お話から感じたこと
最初に、現在の世の中で起こっている的外れなこととして、子ども達の置かれている状況に関して、井元露彦さんの詩を紹介され、おにぎり1個の贈り物とそのお返しチョコレートのお話を紹介された。飢えは人間の的外れを明らかにするし、また逆に愛も明らかにすることを、その詩の紹介を通じて教えられた。
帰ってネットでその詩を探したがまだ見つけることは出来ない。またトライしてみよう。

今日の説教の聖句はマタイ伝の荒れ野の誘惑の記事。悪魔の誘惑は①食べ物・お金、②能力、③権力。いずれも痛いお話である。しかも、悪魔はウソを言って誘惑するのでなく、正論を言うことで誘惑する。そのことに心を止めよと諭された。
いつも正論を吐くことを目指している私としては、痛いお話であった。反省!
でも、それでも正論は述べ続けなければ・・・。
また、重要名聖句として4章1節の「霊に導かれて」とのみ言葉の大切なことを話してくださった。決して自分の意思で誘惑に合われ、戦われたのではない、霊に導かれて問うことを忘れないようにしよう。
そして最後に、「人間にはパンと共に神さまの言葉が必要なのです。」と言われたが京最初に紹介された詩を通して、神さまの言葉と、神さまに愛されていることを知ることが必要だと肝に銘じました。礼拝に出席できて感謝。

礼拝後は、うどん食堂と「礼拝の学び」の共有
第2週の今日は高槻教会交流員会の主催で、礼拝委員会が行っている「礼拝への学び」を教会全体で共有するための学びの時がありました。
まず最初に、うどん食堂で腹ごしらえと懇談を、その後13時から1時間の学びの時を持ちました。テーマは「祈りを豊かに」-成文祈祷に学ぶーを行いました。
最近の高槻教会では献金祈祷を始め、礼拝前の準備祈祷などで成文祈祷が使われることが多くなっており、自由祈祷の回数が減っていることなどから、一度祈りについて学ぼうと企画し、田中先生に導いていただいて学びました。

成文祈祷も自由祈祷もどちらも大切ー祈りを豊かに
最初に、正教会の礼拝のビデオを拝見し、正教会や設立直後の教会の祈りとはほとんどが成文祈祷であったことを学びました。聖書に出てくる多くの祈りもほとんどが成文祈祷として利用され、詩編はまさに成文のお祈りであることなども紹介されました。
そして成文祈祷と自由祈祷の特徴と良さ、欠点にも触れて紹介されました。
そして、現在の教会で成文の祈りが見直されるようになったキッカケは、エキュメニカル(教会一致運動)の影響があること。それは2度の世界大戦に対して教会は何もできなかった、そのことに対する反省から、教会の一致、祈りの一致が求められるようになっていること。成文祈祷と自由祈祷が教会の中で助け合って、教会としての共通の祈りが、また個人の祈りの質が高められることが必要と学びました。
最後にはフランシスコ・ザビエル、マルチン・ルーサーキングJr、マザー・テレサの祈りを紹介されました。とても感謝な学びの時になりました。

最後に先生からの警句。
祈りをおろそかにすると、祈れ無くなってしまう!
その通りだと思う。
(羜十戒)


 

 

1月24日の主日礼拝は、駿府教会で

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今日の礼拝は、駿府教会で!

今日の主日礼拝は、東静岡駅に最も近い、改革長老派の伝統に従っておられる駿府教会で守らせて頂いた。教会から徒歩2分の日吉町駅から静岡電鉄に乗ると20分あれば確実にグランシップ(劇場のある建物)に着ける。静岡電鉄は1時間に9本も走っているので、待ち時間は気にしなくても良いので助かる。

 

「わたしたちは試練に耐えられる」瀬谷 寛

この教会の礼拝は「招き、悔い改め、み言葉、応答、派遣」という構成で行われる。

「招き」は、招きの言葉と讃詠546番

「悔い改め」は、十戒と交読詩編93編と賛美歌15番

「み言葉」は、聖書(民数記20章6-11節、コリント前書10章1-13節)、祈り、讃美歌127番、信仰告白(使徒信条)、説教、祈り、讃美歌273B番

「応答」は、献金、教会の祈り(長老による)、主の祈り、予告・報告

「派遣」は、頌栄543番、祝福、後奏でした。


今日聞いたことの感想 

今日の説教タイトルは「わたしたちは試練に耐えられる」で、コリント前書の10章13節が中心。多くの方が愛誦聖句とされているみ言葉でしょう。

しかし、そのみ言葉を聞く私たちが安易に自分勝手に理解してしまわない様に、丁寧にそのみ言葉の意味と心構えについて解き明かしをして頂いた。

このみ言葉で最も肝心な事は「神は真実な方です。(=真実なのは神お一人)」、この部分が中心。13節だけを安易に覚え理解するのではなく、その前後に配置されている部分を含めて理解しないと、安易に外部から与えられる苦難に耐えれると理解してしまう。

今、主イエスに付き従って生きて行き救いに預かるのか、それからそれてしまうのか、それが問われている。自分が一人で立っていると思っている時こそ、本当に試練に立っている時である。

試練とは、人生のちょっとした挫折ではない、一番深刻なのは、私たちが神を試みている時、自分自身の力で立っていると思っている時。その事を踏まえて読むと、厳しいが恵みに導く、恵みに満ちた警告ということが分かる。

非常に分かりやすく、また厳しく優しいお話でした。感謝!

また、この教会の週毎の聖書は、週報に書かれた先週の説教壇(メッセージ要約)と次週の予告から拝見すると、コリント前書をテキストにした講解説教としてなされている様です。

 

礼拝後は「SPACの公演のはしご観劇」に駆け付ける。 

礼拝は11時半過ぎに終わったので、今日の、メインの目的は、SPAC(静岡県舞台芸術センター)の公演の観劇のためにすぐに失礼して、東静岡駅南口からの舞台芸術公園での「青森県のせむし男」の公演への無料送迎バスに乗車するために駆け付けました。

バスの乗車のための集合時間は、12時半を目標にしていたから、礼拝終了時間が遅くなれば、昼はおにぎり1個と思っていたが、丸源さんで肉そばのチャーハンセットを頂けた、感謝!

 

今日は教会墓地の墓参と掃除に

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今日は教会墓地の掃除当番を兼ねて墓参しました。
妻順子の召天記念日1月14日を意識しての1月の墓地清掃当番奉仕である。
本来は、彼女の召天記念日である14日にしたかったのであるが、他の方がその前に墓参して綺麗にされている情報があったので、その日は祈祷会でのお祈りのみとして、清掃日を少し後ろにずらしました。
当然のことですが、彼女の好きであった赤いバラとオレンジのバラも持参しました。先日に、他の方が持ってこられていたお花もまだ綺麗だったので、一部取り替えて追加となったので、実にたくさんのお花が溢れました。
彼女が召されてから、丸五年が立った事になる、早い物だ。この3月末から娘の家族(愛と孫二人)と同居することが決まった事を報告した。
また、5年がたち、少し冷静に物事が見れるようになったので、、順子の告別式に関して反省していることを、少し纏めました。

少し気になり、反省していること

妻順子の召天と葬儀式・納骨は、当然の様に私と同じ高槻教会員として、高槻教会で行っています。その事は順子自身の希望でもあり、私たち家族や高槻教会の教会員の皆さんの思いでもあったので、これまで全く問題を感じていなかったのですが、最近、あることから、そのことで少し傷ついている人たちもあることを知りました。
実は、妻順子は私と結婚することでキリスト教と出会い、娘3人が生まれた後、長女が小学校に入学した年に子ども達の幼児洗礼と同時に受洗しました。その後10数年高槻教会に出席していましたが、事情があって彼女だけ摂津富田教会に転会、その後摂津富田教会に教会籍を残したまま、桑原牧師の摂津富田教会退任、高槻向山伝道所の礼拝の中心的なメンバーとしてそこで礼拝を毎週守っておりました。夫婦はそれぞれが出席する教会は異なっていても、同じ主を信じる者としていつも一体感を持っていたのです。
順子が天に召されたのは、本当に急な出来事でした。2010年の10月に大腸癌の手術をしてそれは成功、その時には転移も無く術後の経過も良好ということで、1月からの職場復帰が決まっていた矢先、年末から少しせき込むようになり、1月3日に緊急で高槻の医大病院に駆け付けた時には、肺と肝臓への転移が急激に悪化しており即入院。夫婦で覚悟を決めました。1月は持つことを願いながら、1月5日には会社に一旦行って経過報告と私の休暇届、訃報を出すまで会社には来ませんとの連絡です。その後、1週間足らずの入院で14日には天に召されたのです。
その間、彼女は高槻教会に教会籍を戻して私と同じ高槻教会のお墓に入りたいと希望を言い、当時の高槻教会の佐藤先生と摂津富田教会の大谷先生にご尽力願って、緊急に順子の転会を実現させていただいたのでした。そのため、順子が日頃出席していた高槻向山伝道所には、先生に状況を伝える事しかできませんでした。たった一週間の急変ですから、正直な話、順子の葬儀式や色々なことは高槻教会でやっていただくことしか全く頭になかったのです。
でも、順子が普段出席していた高槻向山伝道所の方たちに取ったら、自分たちの教会の中心メンバーの告別式を、自分たちの関与できないところで勝手に決められたのですよね。そのことについては、私は全く気が付いていませんでした。
尤も、仮に気が付いていたとしても、最終的には高槻教会で全てをすることは、喪主である私や家族の存在からすると、変わることはなかったのですが、時間が与えられていたら、高槻向山伝道所の方に対する配慮がもう少しできたかなーと反省しています。

教会共同体と、個人の生き方、価値観との融合は本当に難しいですね。
全て良しの関係を常に求めたいけれど、俺はなかなか難しい!
(羜十戒)