猪十戒の「み言葉に導かれて」

欠けの多い猪武者こと猪十戒(安田信夫)が、日頃の生活の中で心を動かされた事や「み言葉から思うこと」などを書きとめておきます。出るだけ毎週の高槻教会の礼拝や旅の途中で出席した他教会の集会等のこと、その他私の思いなどを紹介してゆけたらと思います。

2016年の新年祈祷会 「わたしの新年の聖句」交換会

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高槻教会の新年最初の祈祷会は、「私の今年の聖句」の交換会である。

皆さんの選んだ聖句を紹介し、最後に私の聖句に付いてちょこっとコメント。

86歳のAさん:詩編86編2節より
わたしの魂をお守りください
わたしはあなたの慈しみに生きる者。


Bさん:箴言5章21節

人の歩む道は主の御目の前にある。
その道は主がすべて計っておられる。

Cさん:コロサイの信徒への手紙3章23節

何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい。

Dさん:ヨハネによる福音書15章5節

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

Eさん:ルカによる福音書6章41節

あなたは、兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気が付かないのか。

わたし:マタイによる福音書5章17節

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

わたしの今年の聖句についてのコメント

わたしの聖句のみが、なぜか他の人とは異なると思っています。でも今年はこの聖句を選びました。
この聖句はイエスさまの山上の説教(マタイ5章ー7章)の幸い地の塩・世の光、の直後に現れ、その後、多くの掟に付いてイエスさまのコメント・解釈が披露されます。
なぜこの位置に配置されたのだろうとの不思議も、思いました。おかなければならない必然性が、当時の教会の人たちに有ったのでしょう。

わたしは、律法とは、わたしたちが幸せをえるために神さまが与えてくださった、この世で平和に生活し満足を得るための道具だと思っています。
しかし、その道具は安易に、神さまの思いを表すものではなく、時の権力者や弱い私たち人間の思いに化けて、悪さをします。
いつも、イエスさまの様に愛を持って、与えられた掟(律法)に込められた神様の思いをいつもかみしめながら、生きてゆきたいと思います。

元旦礼拝で、イエスの様に生きることへの招きのメッセージを頂きました。その事もこの選びに影響しているかな。

人によっては、安田がまた規則規則と騒ぐと苦々しく思われるかもしれません。
                                 (羜十戒)

 

高槻教会 収穫感謝礼拝(2014年10月19日)

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今日は、高槻教会の収穫感謝礼拝であった。
礼拝委員会で準備した特別の礼拝を持った。礼拝の中で収穫物を奉献し、「このぶどう だれのもの」との主題の礼拝を守った。
今日の礼拝式文と、牧師短信を紹介します。


収穫感謝礼拝式文(2014年10月19日)
◇序詞
 収穫は神の恵の賜物です。聖書の人々は、豊かな収穫が、神のいつくしみの具体的な表れとして、大きな喜びと感謝を捧げました。彼らは実りを収穫する時、すべてを摘み尽くさず、刈り取らず、いくらかはそのまま畑に残しておきました。産物の残りは、孤児、寡婦、外国人、つまり社会的に小さくされた人達のものなのです。それは弱い立場の人々の生命への配慮という意味があります。しかしそれ以上に人間には、自然の恵みを全て自分の物にしたいという欲望があるからなのです。恵みの独り占めは大きな罪です。
 イエスが5000人の人々に、5つのパンと2匹の魚を分けられた時、わずかなものにもかかわらず人々は皆満腹し、その上に12の籠にあふれるほど、残りが出たのです。主イエスは恵みを感謝して、大切に用いられる方でした。「残しておく」という収穫感謝のこころは、収奪の罪から解放されることです。

◇前奏
◇招きの言葉 コリントの信徒への手紙二9章10節

◇さんびか 21-171「かみさまの愛は」(歌っている間に収穫物の奉献)
◇主の祈り (一同唱和)

◇収穫感謝のリタニー

司会者:あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。

   神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます(詩65編10節)

司会者:収穫したものには、神の愛があふれています。
みんな:神さま、ありがとうございます。

司会者:あなたはわたしたちだけでなく、すべてのものに目をとめてくださいます。

みんな:神さま、ありがとうございます。

司会者:そのよろこびを、自分だけのものにするのではなく、
   多くの人と、わかちあうことができますように。
みんな:神さま、わかちあうためのこころをください。

司会者:わかちあうことで、神さまの愛を、共に感じることができますように。

みんな:神さま、わかちあうためのこころをください。
ともに:わかちあうことで、神さまの愛が伝わりますように、アーメン

◇さんびか こども讃美歌ー112「かみさまがつくられた」

◇聖書 申命記24章14-22節

◇祈り 田中雅弘牧師

◇福音 マルコによる福音書6章38-44節

◇説教 「このぶどう だれのもの」 田中雅弘牧師

◇祈り 田中雅弘牧師

◇さんびか こども讃美歌102「わたしたちのたべるもの」

【残りものの収穫感謝】
◇聖書1 申命記24章19節(繰り返し朗読)

  畑の落ち穂を覚えましょう

◇聖書2 申命記24章20節(繰り返し朗読)

   残りのオリーブの実を覚えましょう・・・オリーブの実を配餐

◇聖書3 申命記24章21節(繰り返し朗読)

   残りのぶどうの実を覚えましょう・・・ぶどうの実を配餐
◇沈黙

◇とりなしの祈り

◇さんびか こども讃美歌60「主イエスはまことの」

献金 (献金感謝の祈りは下記を、一同で共に唱える)

わたしたちのかみさま、

ひとりひとりがこの礼拝に招かれ、ありがとうございます。

ここにおささげしたものは、み恵みへの感謝のしるし。あなたと隣人と、共に生きる決意のしるし、遣わされているところへ歩む献身のしるしです。これらがあなたのみ心によって、豊かにもちいられますように。

新しい一週間が始まります。あなたの愛から離れないように、わたしたちといつも共にいてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

◇報告

◇頌栄 讃美歌21-88「心に愛を」

◇祝祷 アーメン
◇後奏

 

日本基督教団高槻教会 世界聖餐日礼拝(2014.10.5)

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 日本基督教団高槻教会 世界聖餐日礼拝(2014.10.5)

 高槻教会の世界聖餐日礼拝は、礼拝委員会で検討・準備した特別の礼拝式文で執り行われた。教団の信仰告白に言いあらわされている「主の晩餐」と「主の祈り」の意味を味わい知るとても素敵な聖餐式礼拝であった。
 「主の祈り」は普段使っている「主の祈り」の文言ではなく、その内容を7つの段落に分けて祈りさんびする形式で祈りました。
 普段なら第7の祈りの後に続けて唱えるアーメンは、それ以降の礼拝式そのものがアーメンであるとの考えで直接的には唱えませんでした。
 聖書は、コリントの信徒への手紙一11章23-26節(聖餐の制定語)でした。
そして、聖餐にあずかる者として相応しくなるように互いに「平和のあいさつ(主の平安がありますようにと互いにあいさつをする)」をしてから分餐にあずかり、最後に沈黙の祈りをもって聖餐式は終わりました。
 イエス様から頂いた二つの恵みを一杯味わえる素晴らしい世界聖餐日礼拝でした。感謝。

 付け加えて、献金感謝のお祈り(高槻教会では成文祈祷で捧げる)も、今までよりももっとシンプルな新しいバージョンの文言で行いました。
 以下に、本日の礼拝式の式文を紹介しておきます。

            2014年度世界聖餐日礼拝式文
主題「さんびによる主の祈り・主の晩餐」

◇序詞
「主の晩餐(聖餐)」と「主の祈り」は本来ひとつのものです。どちらも「このように行いなさい」「このように祈りなさい」と主イエスから直に受けた恵みの賜物だからです。この2つの賜物の背後には、主イエスご自身の祈りととりなしがあります。「主の祈り」を祈るとき、私たちのすべてが、神の大きな愛とゆるしの中にあることを知るのです。また「主の晩餐」にあずかることで、私たちもまた、主の愛とゆるしを味わい、すべての人と分かち合いながら生きることができるのです。さんびによって主の祈りと主の晩餐にたたえられた恵みを、深くこころに刻みましょう。

◇招きの言葉 ルカによる福音書11章1-2節a
◇さんび 讃美歌21 85 サントサントサント(3回繰り返し)
◇主の祈り1
 天におられるお父さま、あなたの名前がたいせつにされますように。
◇さんび 讃美歌21 39-4 ハレルヤ ハレルヤ(3回繰り返し)
◇主の祈り2
 あなたの平和が、世界のすみずみにまでゆきわたりますように。
◇さんび こども讃美歌 34 キリストの平和が(3回繰り返し)
◇主の祈り3
 あなたの愛で、わたしたちを満たしてください。
◇さんび 讃美歌21 487 イエス・イエス
◇主の祈り4
 わたしにも、そしてみんなにも、今日の食事を与えてください。
◇さんび 讃美歌21 486 飢えている人と
◇主の祈り5
 あなたがわたしを愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合えますように。
◇さんび 讃美歌21 484 主われを愛す(1番を2回繰り返し)
◇主の祈り6
 わたしたちは弱いものですから、神さまどうぞわたしたちを守ってください。
◇さんび こども讃美歌 131 悲しいことがあっても(2回繰り返し)
◇主の祈り7
 大地も、その上にある生命も、その富もすべてあなたが与えてくださった、恵みの贈り物です。
◇さんび 讃美歌21 46 すべての人よ(3回繰り返し)

◇聖書朗読(聖餐の制定語)コリントの信徒への手紙一11章23-26節
◇祈り  (教会の一致のために)   田中雅弘牧師
◇説教  「わたしの記念として」   田中雅弘牧師
◇祈り   田中雅弘牧師
◇平和のあいさつ(主の平和がありますように)
◇分餐
◇沈黙
◇さんび 讃美歌21 376 人の知恵と言葉を超え

献金
            献金感謝のお祈り
わたしたちの神さま、
 ひとりひとりがこの礼拝に招から、ありがとうございます。
 ここにおささげしたものは、み恵みへの感謝のしるし、あなたと隣人と共に生きる決意のしるし、遣わされるところへ歩む献身のしるしです。
これらがあなたのみ心によって、豊かに用いられますように。
 新しい一週間が始まります。あなたの愛から離れないように、わたしたちといつも共にいてください。
 主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

◇報告
◇頌栄 讃美歌21 88 心に愛を(アーメンまで)
◇祝祷
◇後奏

注:高槻教会の讃美歌では、通常、頌栄以外はアーメンを省略して歌います。

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。

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コリント前書13章13節のみ言葉

(新共同訳)それゆえ、信仰と、希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

(口語訳)このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

私と妻と、恭子先生の共通の愛唱聖句

このコリントの信徒への手紙13章13節のみ言葉は、私と妻の愛唱聖句であったが、恭子先生の告別式の時に、この聖句額が棺の上に飾られました。(写真参照)
その聖句額は告別式の後、棺の中に共に入れられましたから、恭子先生が生前いつもそばに置かれていた愛唱聖句だったのでしょう、嬉しい。
先生はこのみ言葉のとおり、愛に生きられた。その過程で、私には「他人にお金を出してもらってでも高校に行きなさい。」とのアドバイスを下さったのだと思います。
その背景には、家裁の調査官として多くの人と接してこられた豊富な経験があったのだと、今ならわかります。おかげで今の私があります、感謝。
必要な時に、適切なアドバイスをする。なかなか出来ることではありません。しかしその行為の中で、確実に愛が伝わってゆくのです。私もそのようなことができるように自分を磨き、経験と知識・見識を育ててゆきたい。

実は、わが子の命名のネタ聖句

私には3人の娘がいます。名前は「愛」と「望」と「恵」。本来は三人目は男であるなら「信」となるはずでした。実際「恵」が生まれた時には出生届に一度は「信(まこと)」と書いたのですから・・・。しかし「信」は私(信夫)がいると思い直して、私の中学の同級生の今井恵君(今井和登牧師の長男)の名前から「恵」をもらいました。
コリント前書13章13節の聖句は、私が受洗した折に、恭子先生が母親代わりなら、父親がわりのように大切な教会学校の校長先生(池田 實先生)から、記念の聖書にサインして戴いた聖句です。結婚した時に、その先生に妻を紹介するために北海道に新婚旅行に連れて行ったものでした。全て私の都合、勝手な男です。
長女を「愛」と名付けた後は「望」ちゃんは、「信」ちゃんはと三人セットとして待たれていました。勿論夫婦でもそのつもりでしたが・・・。

妻の召天記念のシオリもこの聖句

この聖句(口語訳)は、妻の愛唱聖句でしたし、召天記念のシオリとして作り親しくしていただいた方に配っていました。
昨年の12月8日に土師教会の森田 進先生の按手礼式に参列した時、近いうちに土師教会の礼拝に出席したい旨をお伝えしていました。体調を崩されている恭子先生や喜行先生にお会いし、妻か天に召されたことなどを話す機会を得たかったからです。その時に、妻の記念のシオリもお渡ししようと思っていたのに! 残念。

シオリ表面:このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 コリント人への第1の手紙13章13節

シオリ裏面:主に恵まれて、愛を持って人々に仕え、その生涯を主に従順に全うした安田順子の召天を記念して 2011年1月14日

「信」「望」「愛」「恵」「順」と家族5名の名前を織り込んで作りました。 (羜十戒)

最高の賛辞、そして慰め・励ましの言葉

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主による鍛錬 (ヘブライ12章1-3節)

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただし証人の群れに囲まれている以上。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りのなったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 慰めと励ましのみ言葉でした。

1月22日の安村恭子姉の告別式の聖句はヘブライ12章1-3節でした。
司式の森田 進牧師が、お連れ合いであった安村喜行牧師と相談されて決められた聖句。
キリスト信徒として、職業婦人(家裁調査官・調停委員)・牧師夫人・母親として、与えられた仕事を忍耐強くしっかり走り抜かれた恭子姉を送るのに本当にふさわしい聖句でした。

主イエスの愛を証しするために、与えられたところでいつも精一杯働かれ、今は、後に残された私たちの前に証人として囲んでくださっている。
その愛に導かれた私も、力及ばずともその後に従って定められている競争(人生)を忍耐強く走りぬかなければならないと激励される、感謝。

悲しみの中に取り残された喜行先生御自身も、このみ言葉で自分を奮い立たせ、同時に共に走りぬかれた恭子姉を褒め称えておられるのであろう。

私も人生が終わり、天に召された時には、恭子先生に導かれたものとして、同じように走りぬいたと言われるように努力しよう。

写真は、お礼の挨拶をされる喜行先生。          (羜十戒)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

詩編121編1-2節

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る。

天地を造られた主のもとから。

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 もっとも悲しい時に、何時も、わたしを支えてくれるみ言葉

 わたしが母の様に慕い、とても大切に思っていた安村恭子先生が2014年1月19日に天に召されました。とても悲しいことでした。
その告別式で司会者によって読まれた招きの言葉が、詩編121編1-2節でした。

 悲しい思いに打ちひしがれ、これからの人生の旅路においては、どのようにしても直接お会いすることができなくなったと、絶望に近い悲しみにふさがっている私に、「助けは来る。天地を造られた主のもとから。」と励ましの言葉を下さるのです。
 普通に考えれば、どうして良いか分からないような悲しみの底に、ただ一言、「助けは来る。」と断言されるのです。その言葉によってなんとはげまされる事か。
励まされて、告別式の礼拝に臨み、み言葉を聞き、式辞と弔辞を伺い、讃美を捧げることができました。感謝

このみ言葉はこれまでも私を支えてくれた。

 このみ言葉は、私の人生の内で最も悲しく、途方に暮れている時にいつも私を支えてくれます。私たち夫婦にとって一番大切な宝が、1年半に渡って取り去られてしまったとき、妻が突然天に召されてしまったとき、自分の力では如何ともしがたい悲しみの底に沈むしかない日の夕方、力なく西の空を眺めるとき、なぜか讃美歌と共に浮かんでくるのがこのみ言葉でした。
 「助けは来る」とは、失意の底にある者にとっては、希望であり同時に願望です。希望を持ちながら、願望に望みをつないでいるだけなのかもしれません。
 しかし、確実に「助けは、天地を造られた主のもとから来る」のです。それは、わたしたちが望むようにすぐにではないかも知れません。じりじりと待つ私たちにはつらい時が続くかも知れません。

しかし、「助けは、それは神様が良いと思われた時に確実に与えられ、来る」のです。わたしは何度もそのことを体験してきました。

讃美歌21の156番「目を上げ、わたしは見る」

 このみ言葉を歌詞とする讃美歌「山辺にむかいて」(讃美歌:301番・21:155番)は有名で、愛唱讃美歌とされている方も多いと思います。
 同じ曲で、歌詞をストレートに詩編121編のみ言葉にしたのが、讃美歌21の156番です。
 私はこの歌がとても好きです。詩編のみ言葉がストレートに聴けるからです。教会の祈祷会で証しをするときには、いつも讃美歌を歌っていただきます。 (羜十戒)

 

 

2014年1月12日 高槻教会主日礼拝

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1月12日降誕節第3主日の式次第より

招詞:詩96編1-2節 交読詩編:詩36編6-10節 讃美歌21:133、277、275、522、88

聖書:出エジプト記14章15-22節、ヨハネの手紙Ⅰ5章8-9節、マルコ1章9-11節

説教:「わたしの喜び」田中雅弘牧師 マルコによる福音書1章9-11節

今日の田中牧師短信(週報より)

人はさまざまな言葉によった生きてゆきます。喜怒哀楽もすべて言葉によるのです。「わたしはあなたを喜ぶ」、主イエスが受洗された時、天からこの声が響いたと言われます。この世に生まれて、誰もが聞きたいと思っている根源語がこれです。私たちが洗礼(バプテスマ)を受けるのは、ただ「主イエスにならう」ためです。洗礼とは、神からこの言葉を聞く出来事にほかなりません。

吉野弘さんの詩「一枚の絵」

説教の中で、吉野弘さんの「一枚の絵」という詩が紹介された。吉野さんが一枚の絵「母子像」を見て感じられた気持ちが詩とし書かれたものです。先生が引用され、私の心に残ったフレーズは「この絵の中の子供は母なる人にありのまま受け入れられている。そして、母親はほとんど気付かずに神の代わりをつとめている」私たちは皆、そのような愛の中で育てられてきた。そのことに気づきたい。
注:詩の全文は、ネットで検索すると読むことが出来ます。

「あなたはわたしの喜び、わたしはうれしい」

マルコ福音書は他の福音書と異なって、なぜ洗礼を受けるのかなどの神学や、理屈や説明もなく洗礼を受けたと主の公生涯の記述を始めるのが特徴。
人生には納得したから始めることもあるでしょう、しかし人生には見る前に飛ばなければならない事もあるでしょう。その時にどのような言葉が与えられるか?

11節の「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」とのみ言葉を、「あなたはわたしの喜び、わたしはうれしい」と訳して下さった。

人間はどこかでこの言葉を聞かなければ生きてゆけない。そしてこの言葉は、私たちが絶頂にある時には聞こえない、むしろ失意の中でこそこの声が与えられる。イエスが洗礼で水の中に沈んだ(死んだとき)に「あなたはわたしの喜び」との声が聞こえた。私たちは礼拝の中でこのイエス様が洗礼を受けた時と同じことを体験している。神様は「あなたはわたしの喜び」と語りかけられている。一枚の絵の母親の様に!

写真の講壇のお花(ポインセチアの鉢植え)は、クリスマスの時から頑張っている。綺麗だし、教会会計としては助かります。

URL= yasuda1.hatenablog.com の新しいブログを開設します。

週ごとの礼拝の紹介や、心に留まったみ言葉から感じたことなどを紹介します。

私は日本基督教団高槻教会の信徒の安田信夫です。

ニックネームは猪十戒、猪年の欠点の多い男で、何事にも猪突猛進してしまいます。決して孫悟空の弟子ではありません、イエス様を慕っていますから猪八戒ならぬ猪十戒と名乗っております。
猪十戒とは「10の戒めを必要とする猪のこと」ですが、このブログにおいては「まるまる太ったこひつじ」をあらわす羜を用いて「羜十戒」としました。

私が日毎の教会生活で感じたことを、み言葉によって与えられた恵みを、皆さんにお伝えするための場になればと思ってこのブログを開設しました。

週毎の講壇のお花の写真や、礼拝などで心に留まったみ言葉から感じたことなどを紹介する場になればと願っています。(神様、導いて下さい)

このブログははてなブログProを利用した2番目のブログです。

最近利用を始めた、はてなブログでは複数のブログが開設できますから、これまで私が「一信徒の、主にある一致と前進のための祈りと石の叫び」として開設していたはてなダイアリーの内容を、いくつかのテーマに分割整理して複数のブログにしました。

一番目は、URL=yasuda0.hatenablog.com は「私の人生の振り返り」をテーマに非公開。

三番目は、URL= yasuda2.hatenablog.com は「教憲・教規の学び」をテーマにします。

四番目は、URL= yasuda3.hatenablog.com は「一致のための祈りと叫び」がテーマです。
それ以降は未定です。
はてなダイアリーの方では、「猪十戒のアウトドアライフ」も紹介したいですね。

 整備できたものから順に公開してゆきます。

「一信徒の、主にある一致と前進のための祈りと石の叫び」を移行

これまで、はてなダイアリー「一信徒の、主にある一致と前進のための祈りと石の叫び」として公開していた内容は、四番目のブログに移行させます。
移行後も1年間は、はてなダイアリーの方はバックアップとして残しておきます。
皆さんの閲覧先の移行が完了したら、はてなダイアリーの方は削除・抹消します。

                               (猪十戒)

1月9日 祈祷会は、「新年の私の聖句」披露会

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1月9日の祈祷会は「新年の私の聖句」披露会であった。
聖書:マタイによる福音書 6章16-34節を輪読し、その後に披露会を実施.。披露会の後に、今日の祈りの課題の教会(西大井教会)の紹介を受けた後に順に祈った。

皆さんの「新年の聖句」紹介

詩:147編10-11節

主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さをのぞまれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。

マルコ11章2-3節

「向こうの村にゆきなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて連れてきなさい。もし、だれかが、『なぜ、そのようなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」

ローマ11章17-18節

しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

ガラテア6章1-4節

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることが出来ないでしょう。

ヘブライ11章1節

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確信することです。

コリントⅡ6章1b-2節

 神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの火に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

詩編84編(84歳になられた兄の今年の聖句)

・・・・・・・・いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。・・・・・・

わたしの今年の聖句

マルコ14章22-25節 主の晩餐

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、でしたちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

わたしの今年の聖句を選んだ理由

今年は、聖餐について考えてみる年にしたい。日本基督教団信仰告白には聖餐という言葉は使っていない。教憲では「聖礼典はバプテスマおよび聖餐」と定めてあるのに、その教憲の下で検討され制定された信仰告白においては、「バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ」と定めてある。

そのことの意味を再吟味したいからです。

 

 

 

2014年1月5日 高槻教会新年礼拝

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1月5日 降誕節第2主日礼拝の式次第より

招詞:創世記1章1,3節 交読詩編:詩89編2-15節 讃美歌:149、279、275、361、88

聖書:ゼカリヤ書 8章1-8節、テサロニケⅠ 2章1-8節、ルカ 2章41-52節

説教:「12歳のイエス」田中雅弘牧師 ルカによる福音書 2章41-52節

神殿での少年イエス

今日の説教は、ルカ2章から神殿での少年イエスの物語。
イエス様の時代のユダヤでは12歳ぐらいで成人の祝いをしたようである。成人とは自分の身の置き所を自分で決めるようになること、独立の徴である。

「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話をしたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」

イエス様は父の家を、自分の居場所、住むべきところとされた。成人されて、自分の身の置き所を見出され、決められたのです。イエス様が学者たちの真ん中に座られたのは、議論していたのではなく、学ばれていたことの徴。

一番心に残ったみ言葉 52節

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」

イエス様がナザレに帰られた後、活動を始められるまでの間、神と人とに愛された。との記述は私たちを勇気つけてくれる。
イエス様は、知恵も背丈も、神と人からの恵みによって満たされていった。
人となったイエス様が経験なされたことは、私たちにも同じ恵みとして与えられる。

私の人生を振り返ってみても、いつも神様と周りの人たちの愛によって育まれた来たことに気付く、隣人を通じて私たちに注がれる主の愛の恵に、感謝!