猪十戒の「み言葉に導かれて」

欠けの多い猪武者こと猪十戒(安田信夫)が、日頃の生活の中で心を動かされた事や「み言葉から思うこと」などを書きとめておきます。出るだけ毎週の高槻教会の礼拝や旅の途中で出席した他教会の集会等のこと、その他私の思いなどを紹介してゆけたらと思います。

11月17日10時からは、高槻教会八丁畷家庭集会

八丁畷のSさん宅で高槻教会の家庭集会を8名で守る。

今回のテーマは、信徒の友11月号の特集から、「部落差別 水平社宣言100年に」であった。
100年前の「全国水平社創立宣言」は素晴らしい文書でいいなと思う。虐げられているののが、自らの人間としての平等/権利を主張して立ち上がる、それは素晴らしいことだ。私もその思いです職場に労働組合をやち上げ、職場の仲間の健康や権利を守流ために立ち上がり、それをまっとうしたから本当に同意だ。
全ての人権や権利、それを必要とする人たちは自ら叫んで立ち上がらなければならのだ。その事実は今でも続いいる。
それの今回の記事を読んで、その書き手のほとんどは私が大阪教区で活動してきた知り合いばかり、活動がちゃんと進んでいるのだろ読んでも一般論としての差別反対の考えは見えるが、将来のついての展望と方向性は見えない、残念なことだ。
出席された皆さんの意見を聞いていても、考えには同意、でも現実にはその差別された経済的状況などは改善され今は見えない。結婚差別も言われるとそれはダメだと思うけど、私はその現実には出会っていない・・。その現状から、今後にどんな方向を探すのだろう。
楽しく意見交換したが、コン顔の運動の方向転換を願う祈りが残った。

今回のテーマは信徒の友11月号の特集から
多くの方からは批判を呼ぶかもしれないが、ここから私の意見表明をする。

一般的に、部落差別とは元々は職業差別に受け由来され、それが江戸時代士農工商という身分制度のその下に被差別階級としての穢多非人を置かれたその住む住宅環境などにより、固定化されたとこと発祥されていると私は理解しています。そしてその居住地による差別が、出自(出身地)差別として固定化され、その後の就職差別/結婚差別に繋がったものと思っています。
私は、子どもの時からメンタルにハンディを持った家族を持ち暮らしてきました。そこにも差別はありますし、また逆に相手がよくわからないから、自分が攻撃されていると思い、相手を排除する周りの人たちの気持ちもわかります。多くの方が私の愛読コミックの「光とともに・・・〜自閉症児を抱えて〜」に書かれている内容を理解し、相手を認めてそれに合わせて対応してくだされば願うのみです。
で、
で部落差別ですが、その住宅環境などの関しては部落解放同盟をはじめとしての対行政闘争で、現在では多くは地域で改善されていると思います。そのために現場の実の住環境などの差別は解消されたと理解して。その活動は、今では日本国中の全ての地域住民が、自らの住環境と行政サービスを点検して声を上げる、一般の住民自らの声と昇華されるべきであろう。でないと、一度権力に対して大きな影響力を持ったものとして自らの権力を誇り、新たな利権集団のボスとなり意味機偉われるようになるであろう。多くの方の意見の中に、その恐れを感じた。
それと特筆すべきことは、今回の記事の中、具体的な結婚差別の事例は書かれず、この子が差別されるかもれないとの恐怖心の強調のみ。これは自らが自らのグルーブ(出自)を差別していること、まずはしれに打ち勝つことがまず第一。他人の心ではなくまず自ら心を見直してほしいと思う。

部落差別はどこから始まったのか

昔、大阪教区出身の部落解放委員会会長から、天皇がいるから部落差別があるとの発言を聞き驚いたことがある。
部落差別は江戸時代の「士農工商・・・」身分制度の始まったこと、天皇制とは全く関係のないことであるのは明白。
それより出自による差別は、現行日本国憲法(いわゆる平和憲法)のおいては、天皇家の人のみ基本的人権を奪われ(自分の意志とは関係なく)象徴天皇制維持のための道具の役割を強要される被差別民であるという事実に、まず目を向ける立場にありながら、天皇制があるから差別があると全く的外れの発言。悲しいことです。
徳川政府を打ち倒す旗印として天皇制を担ぎあげ、天皇を看板に実態はおれたちがいただくと蠢いた、安倍の爺さんをはじめとする長州の悪役が画策した政治に乗っかってよく言うよ。悲しいことだ。

あえて言う。

現在は、ジェンダー問題をはじめ、多くの弱者が私の人権を守れと発言を開始し、行動出来る時代。
解放同盟も部落解放委員会も、活動視点を変更し、多くの弱者差別解消の戦いの中に先立として入って活動してほしいな。
その意味では発展解消を提起したい。
いつまでも「俺差別された側で正しい人、他の人たちは差別した側で悪い人」では話が始まらない。
私たちキリスト者は私はどうしようもない弱い人間、罪を犯してしまいます、私を許してくださいと他人ではなく自らを顧みるもの。