猪十戒の「み言葉に導かれて」

欠けの多い猪武者こと猪十戒(安田信夫)が、日頃の生活の中で心を動かされた事や「み言葉から思うこと」などを書きとめておきます。出るだけ毎週の高槻教会の礼拝や旅の途中で出席した他教会の集会等のこと、その他私の思いなどを紹介してゆけたらと思います。

2016年の新年祈祷会 「わたしの新年の聖句」交換会

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高槻教会の新年最初の祈祷会は、「私の今年の聖句」の交換会である。

皆さんの選んだ聖句を紹介し、最後に私の聖句に付いてちょこっとコメント。

86歳のAさん:詩編86編2節より
わたしの魂をお守りください
わたしはあなたの慈しみに生きる者。


Bさん:箴言5章21節

人の歩む道は主の御目の前にある。
その道は主がすべて計っておられる。

Cさん:コロサイの信徒への手紙3章23節

何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい。

Dさん:ヨハネによる福音書15章5節

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

Eさん:ルカによる福音書6章41節

あなたは、兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気が付かないのか。

わたし:マタイによる福音書5章17節

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

わたしの今年の聖句についてのコメント

わたしの聖句のみが、なぜか他の人とは異なると思っています。でも今年はこの聖句を選びました。
この聖句はイエスさまの山上の説教(マタイ5章ー7章)の幸い地の塩・世の光、の直後に現れ、その後、多くの掟に付いてイエスさまのコメント・解釈が披露されます。
なぜこの位置に配置されたのだろうとの不思議も、思いました。おかなければならない必然性が、当時の教会の人たちに有ったのでしょう。

わたしは、律法とは、わたしたちが幸せをえるために神さまが与えてくださった、この世で平和に生活し満足を得るための道具だと思っています。
しかし、その道具は安易に、神さまの思いを表すものではなく、時の権力者や弱い私たち人間の思いに化けて、悪さをします。
いつも、イエスさまの様に愛を持って、与えられた掟(律法)に込められた神様の思いをいつもかみしめながら、生きてゆきたいと思います。

元旦礼拝で、イエスの様に生きることへの招きのメッセージを頂きました。その事もこの選びに影響しているかな。

人によっては、安田がまた規則規則と騒ぐと苦々しく思われるかもしれません。
                                 (羜十戒)